懐かしシリーズです



 会員のハイブリッドさんからの投稿です。
 1970年代に撮影された作品です。
 「コメントはお任せします」とのことですので、今回は、臨鉄の会の星が原稿を担当します。
 以前にもお知らせした通り、臨鉄の会の星は、1978年から4年間、新富士駅に勤務していました。とても懐かしい画像です。
 上は駅舎です。当時は駅長以下60人の駅員が働いていました。なぜそんなに配置されていたかというと、貨車の扱いが多かったからです。十條製紙(現日本製紙)から製品(新聞紙)を運ぶため、空車のパワムを十條製紙構内に入れ、製品の入ったパワムを新富士駅構内に持ってきました。たまに化学製品というか、黄色いタンク車の出し入れもありました。先輩に聞いたところ、以前は、チップの貨車も相当あったということでした。その他にも、新富士発着の、いわゆる車扱の貨物もありました。といっても、扱うのはトラやワム数台といったところです。
 なんといっても多かったのは、西港の石油輸送です。西港のターミナルから、1日100台近くのタンク車が、開発埠頭のDD(そのうち1台は、現在の太平洋石炭販売輸送D801)に引かれて、新富士駅の9番線に運ばれてきます。それを、釧路操車場からやってきた小運転のDE10によって振り分けます。その作業は、突放作業の連続で、構内係がタンク車に飛び乗ってブレーキをかけ、組成をつくります。中にはすごい力を入れないとブレーキの効かないタンク車もあり、冷や汗をかいたことも何回かあります。夢で、タンク車のスピードが速く、どうしても飛び乗れなくて、はっと目が覚めるということもありました。ちなみ、貨車から飛び降りるのは40〜50?でも平気(当時は若かったので・・・)ですが、飛び乗るのは危険が大きく、先輩たちから30?ぐらいが限界と聞かされていました。何人かの方は、飛び乗りに失敗して大けが、あるいは、死亡したこともあったようです。下の写真は6番線にタンク車が止まっていますが、これから帯広方面へ向かう列車ではないでしょうか?昼間はタンク専用の列車が少なかったので、これは早朝?でかな?ちなみに駅舎の横の旗は、組合の旗ですね。
 新富士の話をすると、まだまだ続きますが、この辺で終わりにしようと思います。続きは、今度講演会でもやりますか(笑)